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<声>の力
役者は一に声、二に姿、おまけに声よけりゃあ姿も美しく見える。
リーディングはこの論法を一番素朴に発揮する演劇表現ではないかと私は考えている。
というわけで「素朴な演劇」なのだ。
しかもこれが実は曲者。
登場人物という「ボカシ」が入らず演技者自身が観客の前に露呈されるのだから。
じゃあ、自分そのものを出せば良いかと言うとこれはアウト。
他人の自我やら感情やらに誰も一々付き合いたくなんかない。
芝居の演技でも自分そのものを出すのがいいと勘違いしてるのが多すぎ。
表現なんてそんな自己満足的な甘いもんじゃないすよ。
自分を「透明」にする、つまり自我を超える存在。
その〈存在する力〉、ありきたりの言葉で言えば〈存在感〉、世阿弥の言う「花」、
これを得るためには生涯修業なのだ。
俳優は自我をトランス(超える)して「透明な身体」、つまりゼロ状態のメディア(媒介)にならなければならない。
ま、イタコですね。
死者(当事者)の代理をするのだから。
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俳優の存在感とは?
俳優や演技者の〈存在感〉を誰でも言うが、まるで天から降ってきたもの(天性のもの)にしてしまう。しかし、これ
を技術の問題として演劇人類学の視点から詳細に分析したのがバルバの『俳優の解剖学』。後期スタニスラフ
スキーの身体行動の分析、グロトフスキ、バルバと太い根で結び付いている。
私が演技行為の芸術面での探求を30年以上続けてきたことの中心にあるのも演技者の〈存在感〉獲得を方法
的に具体化すること。バルバも参照した日本の伝統演技をヒントにF式トレーニングを編み出した。バルバを知
るのは15年前、後期スタニスラフスキーは最近世界で認識され前後するが同じ課題だ。
因みに役者の〈存在感〉のことを世阿弥は「花」という言葉で表した。私の卒業論文は「世阿弥とアルトー」、担当
教官に世阿弥に関して随分生意気なことを言ったが担当教官は面白がってくれた。生意気だったり反権威的な
態度に理解ある懐の広い先生だった。私は「花」を「エネルギー」から探求した。
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今年はテラ・アーツ・ファクトリー(主宰する演劇団体)を創立して30年、
「ジャンルを越え、国を越え」を活動理念に
山あり谷あり、そして長い休止時期あり
20代の若者たち中心で始めた活動、
第三の観客を志向し(第一=新劇、第二=エンターテイメント・小劇場)
続けてまいりました。
これからは多年齢世代集団をめざし、
オリジナル創作上演、
世界の現代戯曲上演、
ワークショップベースの集団創作
など今まで同様変わらずの活動を行っていきたいと思います。
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「紛争地域から生まれた演劇7」
最終日、シアターカンファレンス(ITI日本センター+国際演劇評論家協会日本センター連携企画)終了後、会場
前で記念撮影。スーダンから来日のアリさん、フィリピンから来日の作家ロディさんとシリア作品上演チーム(シ
ライケイタ、伊藤弘子、蓉崇さん)、他の二作品の演出伊藤大さん、立山ひろみさん、司会の七字英輔さん、国
際演劇評論家協会会長の新野守広さん、気鋭の若き批評家關智子さん、通訳の三輪えり花さん、シリア作品翻
訳の鵜戸聡さん、東京芸術劇場副館長高萩宏さんらこれまた滅多に集まらない豪華な面々、勢ぞろい。海外か
らのゲストは日本の演劇界を担う重要な人々ともに5日間の熱いイベントをともにした。
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スーダンから来日されたアリ・マフディ・ヌーリ氏(演出家、ユネスコ大使/平和芸術家)を囲んで。この日、アリさ
んのワークショップが10時から15時まで、レクチャーが16時から18時まで東京芸術劇場ギャラリー2で催された。
ワークショップも人が集まり、イベント責任者としては胸をなでおろす。立教大学でアナウンスした際に「紛争地の
演劇」、「フォーラムシアター」ということに関心を持って参加してくれた人々もいて演劇の外に広がったことに注
目。レクチャーにはITI会長の永井さん(公益財団法人せたがや文化財団理事長)、ITI事業委員長の高萩さん
(東京芸術劇場、副館長)も同席、ITI曽田事務局長、副会長の吉岩さんも出席。参加者も素晴らしい面々が集
まったのだ。
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紛争地域から生まれた演劇 シリーズ7
リーディング&レクチャー
「演劇と世界―日本と世界の出会いをめぐって」
2015年12月16日(水)〜20日(日)
東京芸術劇場アトリエウエスト(一部別会場)
小生総合プロデュース、一年以上の準備を費やしてようやく辿り着いた年に一度の年末宝くじ、いや宝の島「紛
争地域から生まれた演劇シリーズ7」いよいよ今日、小屋入り。準備の間は長いなあ、と思うが来てしまうとあっ
という間、まるで人の一生。
昨日の立教大学で異なる領域、演劇の外にいて演劇を見ている人々の話を聞きながら、「紛争演劇」とは何ぞ
や」という輪郭がすごくくっきり見えてきた感じがしている。時間が取れれば、この企画で交わされた貴重な対話
(トーク、レクチャー、シンポジウム、ラウンドテーブルをかなりの分量で実施、いずれも稀少基調な話を海外ゲ
スト交えて行ってきた)とともにまとめてみたい。
ホームページ⇒http://iti-japan.or.jp/conflict/
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日本演出者協会・国際演劇交流「デンマーク特集」最終日のレクチャーとシンポジウムに足を運んだ。「政治とポ
ストドラマ」、「現代演劇の課題、自主規制」がテーマ。
もとから人々の生活は政治と切り離すことなんか出来ない。演劇は人々の生活を通して人間のあり様や姿の真
実を追求するもの、とするなら演劇あるいは芸術と政治は不可分のものと芝居を始めたころからずううっと考え
てきたが、残念ながら私が学生時代(おいらは全共闘の後の「シラケ世代」とかに属するらしい。当時はシラケて
る暇なんかねえだろとか同世代に反発していたがかなり少数派の70年代後半〜80年代に20代な「世代」)から
ふだん学校で友人と政治の話をするのはタブー、というかダサい、場がシラケるという風潮が出来上がり、以来
数十年それだったから、若者を観客対象にする小劇場もそんな風潮。むろん、演劇やっている人間は誰しも世
の中変えたいと思っている。少なくとも「演劇なんかやってもうかるの?」と言ってしまう社会、金を中心に動く社
会ではなく、もっと人には大切にするものあるでしょみたいな、そういう世の中に変わって欲しいという思いでやっ
ていると思う。それが政治とつながらないのは様々な事情があるが、ようやくその目に見えない「自主規制」も取
り払われつつあるのが3.11以降ではないか。これは私の思う日本的演劇の「自主規制」問題ですが。
今日のお二人、ロリケさん、マスさんのお話を聞いていて、難民が押し寄せ、移民問題が人種(差別、排除)問
題として社会を覆っている地で芸術を政治から切り離して考えること自体が「お花畑」と感じた。それは国際政治
の論理で振り回され挙句の果てに頭上に爆弾を振りまかれてしまう紛争地でも同じである。。。
西新宿での打ち上げ
下記に28日のリーディング『マニフェスト2083』(作:クリスティアン・ロリケ、演出:村井雄、出演:御笠ノ忠次)の
感想を少し残しておきます。
とても刺激的な作品群でした。
11月27日記
(観る前)今日のリーディングは『マニフェスト2083』(クリスティアン・ロリケ作)、ノルウェーで77人殺害の連続テ
ロを起こし戦後最悪のノルウェー犯罪記録を作ったキリスト教原理主義者ブレイビクの書き記したドキュメントテ
キストを元に作られた一人芝居、というかモノプレイのようです。感じとしては引用構成型のイェリネク系でしょう
か。19時、芸能花伝舎、500円という破格料金!問い合わせ090−6510−5549(担当:佐々木)作家のロリケさん
は1973年生まれ、最近はバレエやオペラ・インスタレーションを手がけアートの境界線上を行き来している活動
をしているとか。デンマークというかこうした傾向は世界各国の30代〜40代前半の演劇世代の共通土俵の上に
あるというのが90年代以降西欧から東欧の演劇を現地で見て回り、最近はアフリカや中東もフォローしているお
いらの見方。1960年世代の演劇がグロトフスキー以降の反西欧中心主義史観の上に立った文脈の延長上、
1990年代のミュラー以降の文脈とフラマン(ベルギー・オランダ語圏)から発生しドイツに波及したポストドラマ演
劇系の流れが合流し今や1970年以降に生まれた世界の演劇人に共有された西欧近代史観〜近代劇の先にあ
る演劇という共通基盤の上にある演劇、という感じだと思います(彼の『ノーマルライフ』という作品を見ての印象
ですが)。
(観た後)今夜はノルウェーの反多民族主義(極右)の連続テロリスト、ブレイビクが残した1500ページに渡る文章
と彼に近接しながら創作された『マニフェスト2083』のリーディングを観た。イスラム圏からの移民を多く抱えるヨ
ーロッパ。出生率から見た場合、数十年後にはイスラム系の方が多数派になる可能性もあり得る。その時、内
戦(紛争)がヨーロッパ内で起こることもあり得る(とブレイビクは危機感を覚えた)。この作品では'彼(ブレイビ
ク)'の言葉を語る/演じる私は何者か、が主題化されている。同時に日本人演者もその問いの前に立たされてし
まう。通常の芝居では潜在化して不問に付される根本的な問いかけが問題化される構造を持っている。もしかし
て私たちも類似した体験や絶望感、追い詰められた状況にあれば、つまり可能性としてはいつでも当事者にな
りうるのである。のうのうと安全圏に留まることは出来ないかもしれない。テロリストになるかもしれないのだ。「彼
は私ではない」という保証はどこにあるのか?自分とは無関係な出来事、そう言い切れない。そのような問いか
けを主題化させた作品であったと言える。今更、政治と芸術を別個に分離したりどちらかの優位性を唱えるもの
でもない。双方は不可分なのだ。特に紛争地域や紛争の結果が難民として押し寄せてくるヨーロッパでは政治と
芸術の緊張関係を抜きにして芸術行為を考えるのは現実離れしている。演劇する、芸術するというのが安全圏
に自分の身を置く、置けるものではないことが明確になる。極めて刺激的な作品であった。
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<村井健さんお別れの会>に出席。
紀伊國屋ホール・ロビーで<村井健さんお別れの会>、その後、会場を村井さんが会合などでよく利用されてい
た中華料理店「満月廬」に移動して「村井健さんと語らう会」が催され、100名を超える演劇関係者が集合した。
村井健さんとの初めての出会いは30年以上前の早稲田大学6号館5階アトリエに遡る。ここは当時、私たちの
活動拠点で村井さんは早大生で結成された劇団(「演劇集団アジア劇場」)の舞台に足を運ばれ心強い劇評も
書いてくださった(1984年の村井健さんの劇評⇒ http://forest5.ojaru.jp/page020.html)。
村井さんは1982年から朝日ジャーナルや週刊朝日に劇評を書かれるようになったとのことだから劇評家として
のキャリアをスタートさせたばかりの頃に出くわしたということだろうか。その後、よく声をかけられたりしたが、私
が劇作をやめ(日本の)演劇の場からも離れて海外などで活動する時期には縁が途絶えた。ようやく最近、あち
こちで出会い一緒に酒を交わす機会も出てきた矢先。。
どこか茶目っ気のあった村井さんらしく、この日の会は和やかなムードに溢れ、そのせいか久しぶりに会う面々
と思い出話に興じたりした。村井さんと出くわした早大6号館5階アトリエは建物の4階屋上に大きな木造小屋が
建ち、その中に三つのアトリエがあって、それぞれのアトリエで公演も打つことが出来た。元々は「自由舞台」が
使っていた空間だが、解散後、多くの演劇人が通過した場所で、早大では「劇研」、「木霊」と並んだ演劇のメッ
カでもあった。
6号館5階アトリエは「自由舞台」解散後、つかこうへいさんの劇団などが使用、この日のお別れ会に出席された
錬肉工房・岡本章さんも6号館では大先輩。東京芸術劇場の高萩宏さんは「夢の遊眠社」創立前、ここを拠点に
していた劇団(「騎馬民族」)にいて私たちの劇団とは「血縁関係」というか私たちは弟分、ラッパ屋の鈴木聡君と
も同じ稽古場にある時期一つ穴のムジナ、いや劇団は違うが「同居」した間柄、劇団員同士の交流もあったりし
た(この「同居」の間柄はキャラメルボックスの成井君まで続く)。
20代の頃の思い出を甦らせてくれた村井さんは最近も若い世代を積極的に応援、時には厳しい叱咤で演劇界
全体のことを真剣に考えられていた。私も駆け出しのころ尻を叩かれた一人だが、その姿勢は終始変わってい
なかったのをこの日の若い(というか中堅世代)の演劇人の話からも確認出来た。こうした熱意を持つ評論家は
今、他にいるのだろうか?何とも寂しい気持ちである。
とても暖かかな会でした。村井さんの人柄ですね。
いい会でした。とても暖かい雰囲気で。
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戦後日本の安全保障が大転換された日
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立憲主義の土台が崩れた日
与党、憲法違反の法律を数の力で押し通す・・・
いつもと変わらない新宿、土曜の朝。旅行に来た感じの人々が行き交う。だけど昨日までの景色と今日からの
景色は違うと思っている。何が違うかを考えながら生きて行きたいと思う。
昨日は国会前で一生懸命声を上げる高校生たちの初々しい話を聞くことができた。今まであまり前面に出なか
ったシールズの女子学生の「人前で話すのは苦手なのだけど」という問い掛けにも似たスピーチも聞けた。私た
ちが同じように声を上げようとしたときそれを叩き潰した連中(全学連とか、※※派とかいうやつ)の末裔も来て
いて昔ながらの「政府打倒」と40年50年変わらないシュプレヒコールを上げていたがもうすっかり少数になってい
るので同情したり(そんな気持ちはこれまで一度も起きなかったが)。
11月に某校で公演をやる。演目はまだ告知出来ないのだが初めて高校演劇の戯曲を使う。登場するのは高校
生、沖縄が舞台。その地を訪れた高校生(女子)たちは相部屋の中で小さな戦争を始める。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」。ユネス
コ憲章前文を受け、第二次世界大戦の惨禍の中から世界の舞台人の連帯と二度と戦争を起こさないという決
意で生まれたITI(国際演劇協会)に賛同して20年以上前にメンバーになった。このITI(日本センター)の企画とし
て「紛争地域から生まれた演劇」(12月16日〜20日)の準備をボチボチと進めている。これまでと変わらず地道
な活動だが、「紛争」の響きも意味も始めた頃の7年前とは随分変わった。
今年はシリアの作品を予定している。フィリピン、ナイジェリアも。そしてフィリピンから作家も来る。スーダンから
は「紛争と演劇」のテーマに取り組んだ活動をしている劇作家・演出家(ITI本部副会長)も来日し対談などを予定
している。
ささやかながらやれることを自分なりに一つずつやっていきたい。
考える、自分に問い掛けてみる、こうしたダイアローグの場が演劇だと思う。
罵倒したり敵をやっつけたり、少なくともそういう場ではない。
そこが良いところだと思ってやっている。
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午後2時からスタートし殆ど休まず午後9時まで続けられ、明日8月9日の発表めざして「フクシマ発パレスチナ経
由世界へ向けて」な芝居が作られた。「これは最初の一歩、あとはお前たちで発展させろ」とはイハッブ。WS後
は郡山実行委員の佐藤茂紀さんに連れられて『コリア』に。店の在日三世鄭勇哲(チョン・ユンチョル)さんはパ
レスチナから来たイハッブに熱い共感と連帯のエール。二人は意気投合。
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常に私たちを驚かせ楽しませてくれるイハッブ。in 郡山でもWSプレゼンテーション(発表)を急きょやることになっ
た。東京とは別の台本『難民キャンプの芝居』を使う。台本をベースにするが、「台本を発展させる」ことをやりた
いというイハッブ、フクシマオリジナルの作品になりそう。発表は8月9日(日)14時から。『3 in 1』リーディング上
演とともに豪華!二本立て上演。会場は郡山市音楽・文化交流館(ミューカルがくと館)
写真:郡山のワークショップの様子
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<福島でのワークショップ初日後のイハッブのFBから転載>
福島初日 イハッブ・ザハダァ
2015年8月6日 第二次世界大戦で広島に原爆が落とされた日に
福島にて、放射線と地震とすばらしい演劇集団と
私は今日、放射能漏れ事故後の福島について学びました。福島で生きるということ、毎日放射線にさらされると
いうことが何を意味するのか、初めて知りました。それは触れることができない、感じることができない敵と対峙
するということ。小さな線量計を携帯し、放射線量を計測しながら通りから通りへ、地区から地区へと移動すると
いうこと。どの水を飲むべきか、どの食べ物を口にするべきかを常に把握し、より線量が少ない部屋を選ぶとい
うこと。プルトニウムがどういったもので何年人体に残るかを知り、また福島で5日間に浴びる放射線量が、他の
地域で人が1年間に浴びる平均的な放射線量に相当することを知りました。多くの人が詳細を知らないその苦し
みは耐えがたく、放射能の危険に直面させられるということは、異なる形の占領です。それは地上と地下、枕の
上から空や雨に至るまで、生活の隅々におよぶ占領です。
そう、私たちパレスチナ人と福島の人びとは、見舞われた災厄の規模、生きることへの愛、そして解放のための
闘争という点で、互いに似ています。彼らも私たちと同様に、生活のため、また占領が引き起こす目に見えない
危険から自らを解放するために、闘っています。自分たちの町に残るため、子どもたちが病気にならないために
闘っています。形や種類は異なっても同じ危険があり、場所が違っても恐怖は同じ。この地球上には多くの苦し
みが存在します。津波がもたらした福島の悲劇と、放射能漏れの影響は、長い年月にわたって続くものです。死
を恐れてふるさとを捨てることなく、自分たちの土地に残り続ける福島の住民の方々は、尊敬と賞賛に値しま
す。
今日、建物の9階にいるときに、両足の下にある地面が揺れるという感覚がいかなるものかを知りました。私は
心底恐怖を覚えましたが、地震の揺れは日常の一部だそうで、みんな笑って「大丈夫、ここではふつうのこと」と
言いました。これまで全く知らなかった生活の二要素、放射線と地震を経験した私を待っていた3つ目の新体験
は、新しいグループとの出会いでした。花ざかりの若い参加者たちはエネルギーと活気に満ちあふれ、ワークシ
ョップの数時間中、私は彼らと一緒にいることで安らぎと喜びを感じました。
ワークはさまざまな矛盾する出来事でいっぱいで、参加者のみなさんのすばらしい姿、人生をよろこんで受け入
れ、あらゆる危険を忘れようとするその姿を前に、私の悲しみは一時停止しました。
友人の佐藤さんが笑顔で駅で迎えてくれたときも、私は悲しみを忘れました。そう、親愛なるみなさん、これが福
島なのです。I.Z
(翻訳:渡辺真帆)
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ついに国際演劇交流セミナー初のパレスチナ特集、東京でのワークショップ初日を迎えた。若い参加者だけで
なく中堅、ベテランの演出家、俳優も多く参加し、またバラエティに富んだ出自の参加者の意識の高さ、意欲の
高さはエクササイズの途中でも次々に質問が飛び出し、講師との活発な応答が繰り返されたことでこの夏の暑
さを吹き飛ばす熱量の高さ、関心の高さが特に印象に残るものとなった。パレスチナ・アラブ圏にはある種の情
熱の温度を引き上げる魅力と謎が潜んでいるようだ。イハッブから出されたエクササイズに応える参加者のひき
だしの多さもきわ立ち、見ていて楽しくなる、そんなワークショップ。イハッブ氏も情熱的かつ誠実に取り組み、三
日目には『3 in 1』を全員で分割し台詞を暗誦して発表する(まじか)、と。ほんとうにそうなっちゃうのでは、と思
わせる熱の高さと勢いのあるワークショップ、となった。
国際演劇交流セミナー パレスチナ特集
パレスチナの演劇を体験しよう!
企画者:林英樹
パレスチナで演劇と地域社会の濃密な関係作りを実践するイエスシアターのイハッブ・ザハダァ氏を中心に俳優
自身の体験に基づいて創作された戯曲『3in 1』や難民キャンプの子供たちとの共同創作戯曲を読み、長年に
渡って続く紛争の中、困難な状況下において演劇がどのような役割や意味を持つのかを考え、同時に個々の体
験に基づく作品作りの方法を探ってみたいと思います。
講師:イハッブ・ザハダァ Ihab Zahdeh
in 東京
日程:2015年8月2日(日)〜5日(水)
会場:芸能花伝舎
in 郡山
日程:2015年8月6日(木)〜9日(日)
会場:郡山市音楽・文化交流館(ミューカルがくと館)
パレスチナ自治政府ヨルダン川西岸地区ヘブロン市を拠点とするイエスシアターは、長年にわたって続くイスラ
エル・パレスチナ紛争の中、演劇を「平和の武器」と考え、国内外での精力的な活動を展開している。また、占領
下の緊張を強いられる子供たちへの心理的開放の手段としての演劇の活用を地域全体の学校と連携し実践。
子供たちに直接接する教師たちに演劇的な手法の指導を行うことによって、地域の学校と劇場を有機的につな
げる文化活動を展開している。今回はイハッブ・ザハダァ氏が中心となり、俳優自身の体験をもとに創作された
『3 in 1』を読む。同作は「裸の演劇」をコンセプトとするテレサ・ポモドーロ国際演劇コンペティション(イタリア・ミ
ラノ)で一位を獲得、国際的評価の高い作品である。日本では2013年12月に「紛争地域から生まれた演劇5」
(主催:文化庁/公益社団法人国際演劇協会日本センター、共催:東京芸術劇場)でリーディング上演された。ま
た難民キャンプに暮らす子供たちと一緒にワークショップを実施しながら子供たちの体験を取材して構成された
創作作品『Playing in a Camp』、『Little Adults』も読む。同時に参加者とともに創作の試みを実践し、劇作りを一
緒に探ってみたい。
最終日は『3 in 1』リーディング上演とシンポジウムを実施。
【講師紹介】イハッブ・ザハダァ Ihab Zahdeh
1977年パレスチナ、ヘブロン市生まれ。1997年高校在学時より俳優・スタッフとして活動。2002年にエルサレム
通信制大学にてアラビア語学科を卒業後、2004年ポーランド、グダニスク大学にてドラマ・イン・エデュケーション
コースを修了。イエスシアター創立メンバー。2012年より日本のNPO法人ピースビルダーズとイエスシアターによ
る、教員・ソーシャルワーカーを対象としたトレーニングプログラム「Yes 4 Future」にて、ロールプレイ・インプロ
バイゼーションのワークショップを担当する。他劇団への客演も多数。2010年にはアルカサバ・シアターによる
『占領下の物語』日本公演に参加、2014年には「紛争地域から生まれた演劇5−Part2」で来日。
in 東京
◎ワークショップ パレスチナの戯曲を読む&創作の試み
戯曲『3 in 1』、『Playing in a Camp』、『Little Adults』
8月2日(日)14:00〜17:00
8月3日(月)18:30〜21:30
8月4日(火)18:30〜21:30
◎リーディング『3 in 1』&シンポジウム
8月5日(水)19:00〜21:30
リーディング
演出:秋葉よりえ(NPO法人グラシオブルオ)
出演:長谷川征司、箆津弘順、阿部達也
シンポジウム
パレスチナの演劇活動〜社会との関係を作る演劇
パネリスト:イハッブ・ザハダァ、細田和江(イスラエル文学・文化、中央大学)、秋葉よりえ
司会:林英樹
東京会場/芸能花伝舎
東京都新宿区西新宿6-12-30 TEL:03−5909−3066
東京メトロ丸ノ内線「西新宿」出口2より徒歩7分
in 郡山
ワークショップ パレスチナの戯曲を読む&創作の試み
戯曲『3 in 1』、『Playing in a Camp』、『Little Adults』
8月6日(木)19:00〜21:30
8月7日(金)19:00〜21:30
8月8日(土)14:00〜17:00、18:00〜21:00
リーディング『3 in 1』&レクチャー
8月9日(日)14:00〜17:00
リーディング
演出:岩田隼(劇団ユニット・ラビッツ)
出演:蜿タ耀斗、野川和希、遠藤聖汰
イハッブ・ザハダァによるレクチャー
パレスチナの演劇活動〜自分たちの体験から作る演劇
郡山会場/郡山市音楽・文化交流館(ミューカルがくと館)
福島県郡山市開成一丁目1番1号 TEL:024-924-3715
郡山駅前から麓山経由大槻行きまたは、休石行き「グランド南口」下車。
もしくは、さくら循環虎丸回り「総合体育館前」下車。
各路線の所要時間は、約10分。
【お申込み概要】
対象:実演家として演劇創作に携わる方(演出家、俳優など)
定員:20名
参加費:3,000円(四日間)
*協会員無料、ワークショップ見学500円(回)
最終日のみの場合 500円
定員:20名
文化庁委託事業「平成27年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」
【主催】文化庁/一般社団法人日本演出者協会
【協力】特定非営利活動法人ピースビルダーズ/公益社団法人国際演劇協会日本センター/劇団ユニット・ラビッ
ツ
【制作】一般社団法人日本演出者協会
『3 in 1』 翻訳:柳谷あゆみ、『Playing in a Camp』,『Little Adults』 翻訳:中山豊子 通訳:渡辺真帆
一般社団法人日本演出者協会
〒160-0023 東京都新宿区西新宿6−12−30 芸能花伝舎3F
TEL:03−5909−3074 FAX:03−5909−3075 HP→http://jda.jp/
担当:林英樹、佐藤茂紀、加藤明美、公家義徳、鈴木紀子、佐々木雅彦
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『恋』チームの座組解散の飲み会あり(参加者は全員ではない)。こんなにいい座組は滅多にない。舞台内容の
充実が終わった後の皆の笑顔によく現れている。私がこのあと外部の仕事がずうっと入っているため当分、ホ
ームでの公演はお預けとなる。が、いつかまた。。
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早起きした。まだ4時台。表に出る、結構、涼しい。散歩するか。早起きしたのは夢の途中、昔、縁のあった女性
が登場。一緒に暮らしているようだが、別の男がいて部屋を出てくれと言われる(笑)気づくと崖から車に乗った
まま落ちているが何故か無傷で颯爽と退場する(おお、喜劇)
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『恋 其之参』楽日、テラ初期からの同志の滝君、吉永さんが手伝いに来てくれたよ。古くからの仲間がいてくれ
るとほっとするよ。
で、本番終わって、ばらしも終えて打ち上げです。もう何十回やったかわからないパターンだけど、今回は個人
的にちょっと灌漑、いや感慨深いものがあるんだ、え?何がって?それはヒ・ミ・ツ・・。まあ、三十年目にしての
「再出発」みたいな、いろいろと・・・。
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演出、座長、興行主三役の自主公演。始まるまでは作ることばかり、それしか頭に無かったがそろそろ制作責
任(興行主)肩にのし掛かる(笑) ともあれ、連日満席、公演に入ってノルマが無くても自発的に売ってくれる出演
者もいてありがたい限り。それもこれも台本がいいから、リオさんに感謝の一念。
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いよいよ公演初日。
みなで正装しての舞台記念撮影でした。
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『恋 其之参』 稽古場日誌
昨日、衣装をつけて2回目の通し稽古実施。2週間前に通しが出来るといろいろと手当てが出来るのでありがた
い。新聞によると岸田理生は「幻想的な作風」の作家だそうだ。なるほど彼女の舞台はどれも「幻想的」だった。
そして非常に強固で「具体性」を持った俳優の<肉体>がそこにはいつも存在していた。生々しく妖しい気配を
漂わせる女優陣、屈強で野性的な男優陣。。。
しかし、岸田理生さんの作品に一つだけ例外があった。それは1991年にタイニイアリスのプロデュースで上演さ
れた『出張の夜』である。妻子のあるしがない(うだつの上がらない)中年のサラリーマンと陰のある若い女性と
の不倫話で、もともとテレビ用に書かれたシナリオ(テレビでは冴えない中年男を梅沢富夫が、若い女性は桃井
かおりが演じる)を舞台用に書き直したものだ。女性役は「岸田事務所+楽天団」の八重樫聖が演じ、「うだつの
上がらないサラリーマン男」は何故か私に白羽の矢が立った。それまで自分が書いた作品しか出演はしないで
来たのだが、深夜2時に理生さんから電話がかかってきて出演するよう口説き落とされた。リオさんの劇団に素
晴らしい男優陣がたくさんいるのに何故、自分が?と思いつつも確かに「うだつが上がらない」、「冴えない」、「し
がない」あたりは多少自信があって、理生節を孕むことの出来る見事な<肉体>を所有した岸田事務所の屈強
な男優陣より、頼りない感じの分だけはまっていたのかもしれない。演じるという感じではなく自然体でそこに立
つ感じが欲しかったのだと思うが、確かにそのまま役と重なる感じはあった(笑) 風采が上がらないのに桃井か
おりを自滅させてしまうのだから、本当にひどい奴だ(泣)あ、梅沢富美夫の話です。
ま、余計な話は別にして『恋 其之参』の通し稽古を見ながら、このテレビ用に書かれ、現代口語を中心にした
『出張の夜』の時の、もうとおの昔に忘れかけていた感触が少しずつ体に甦ってくる来るのを感じ出している。
なぜサラリーマンなのだろう?何故、うだつの上がらない、なのだろう?何故、団地の主婦(「団地妻」の方が響
きのイメージがいいとか)なのだろう?何故、現代口語で書いたのだろう?なぜ、「恋」というタイトルのなのだろ
う?考えれば考えるほど岸田理生の術中にはまっている。いずれにしても岸田理生である。俳優陣は彼女のこ
とばの力、会話の力、台本の力に乗せられどんどん変貌しつつある。出来るだけ演出は余計なことをせず、シン
プルに俳優陣、頼りがいのある優秀なスタッフ陣(これだけは宝、素晴らしい人材が集合している)、そして一
見、「喜劇」風に書かれかつ風刺劇的な作風、しかしよく覗くとずいぶん奥行きのある魅惑的な台本に身を寄
せ、風に身を任せるのみ。「頼りなさそうな」演出家は周りに支えられて「演出」させてもらっているのである(笑)
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<感情のドラマ>〜性と体が一体化する「恋」の季節〜
『恋 其之参』 岸田理生作、林英樹潤色
昨日の稽古で、はじめは「コメディ」と思いきやいつの間にか激しく複雑に男女の結び合った糸が絡み出す<感
情のドラマ>へ発展し、それが爆発する山場となる6場(全7場のうち)の詰めを行った。<感情のドラマ>は<
身体のドラマ>と一体である。「恋」とは性と体が一体化する思春期に起きる通過儀礼でもある。大人(社会化)
になることで人はそれを喪失する。しかし岸田理生は作品を書き続けることで「思春期」を保持し続けた人。。。
稽古終わって今回テラ初参加男性陣に誘われ居酒屋へ同行、岸田理生について語り合う。運動量以上に激し
いエネルギー(集中力)を使うテラの舞台。慣れたメンバーでも一日二回の公演はかなりハード、からだに堪え
る。他の舞台なら毎回稽古後、本番後飲みに行ける余裕、体力が残っていてもテラ舞台はなかなかそうは行か
ない。これから本番に向けて体調管理をストイックにお願いしますと居酒屋で伝える。
改めて理生さん、凄いなあと思った。
理生さんが決して使わなかった現代口語を多用した今回の『恋 其之参』。しかし、表層的に書いてるように思え
る部分も裏返せばもの凄い深みを持つ。ことばとして表面に表れない部分、深層意識の部分を前言語状態的に
掻き立ててくる。その「裏返しのことば」の凄みを今回は発見しこれまで知っていたつもりでいた岸田理生の「別
の顔」というかもっともっとすごい岸田理生を再発見した思いでいる。面(おもて)に浮いてきたことばに囚われち
ゃあ深層に渦巻く<感情のドラマ>は見えてこない。そこを身体で滲み出す、掻き出してくる感じの作業をやって
きて見えて来たものだ。たぶん「会話劇」や心理劇演技のアプローチでは見えてこない、ここは浮き上がってこな
い。性と体一致の「恋」が中心テーマなのだから、もっと深いところにある(体/性)ものを顕在化させないとならな
い。
フツ―の人のフツ―でないもの〜
誰しもが持っていて「危険」だから普段は見えないところに押し込めている「厄介もの」に弄ばれ始めるフツーの
人(フツーなんてない、だから自分を裏切りフツーを装うことで世間から見えないようにする)、見えると「いじめ」
に合う。苛める側はいつでもいじめられる側になりうるのだから。「フツー」の主婦を演じる若手女優陣のフツー
の表皮の下に潜り込んでいる「フツー」でないものが日に日にすごくなってきて面白くてたまらない。もう人一人殺
してしまうんだから。そしてもっと凄いのは夫たち。平凡なサラリーマンの顔(仮面)つけてるけど、その中に犯人
がいる(かもしれないと予想させる、そのことで妻たちの不安はパニックに近い状態に発展する)。犯人は一体
誰か?初めは「恋愛コメディ」とか思っていたが、もしかしてこれミステリー?かとさえ思えてくる、しかしそこは痩
せても枯れても岸田理生。テレビドラマの如き、通俗小説の如き浅薄なミステリーではない。『恋 其之参』、稽古
やればやるほど未知の領域に入っている。ぜひ目撃して欲しい。18年ぶりの上演である。テラとしていつかまた
やりたい演目の一つに入った(レパートリー、他にD.ローアーの『最後の炎』、岸田理生の『糸地獄』、寺山修司
の『血は立ったまま眠っている』、ソフォクレスの『アンチゴネー』。やりたい作品はそうそう見つかるものではな
い)。
公演詳細→http://www.geocities.jp/terra2001jp/
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<沈黙の原語>と親和する場所にあることば(劇言語)
第9回岸田理生アバンギャルドフェスティバルフェスティバル(リオフェス2015)参加 (2015年7月8日〜12日)
『恋 其之参』作:岸田理生 潤色・演出:林英樹
詳細:テラ・アーツ・ファクトリーHP→
http://www.geocities.jp/terra2001jp/page121.html
『恋 其之参』
この作品の初演時(1987年)は劇団体制が一定期間持続し作家の独自の文体や劇言語によって役者間の身体
が共有する前言語的な了解、共有の領域が大きく形成されていたものと思う。
前々回に参加したリオフェスのテラ版『糸地獄(マテリアル/糸地獄)』は、「岸田理生事務所+楽天団」が集団
性の頂きに立った時に作られた作品で、やはり集団性を濃密に獲得し始めたテラ2009の持つ異なる種類の集
団性に程よき加減で溶かし込み、そこから新たな舞台として再構成し表象することが出来た。しかし、今回はそ
の時とは全く状態が異なる。
状態が異なるのだから、何が最も創造的であるかを現在形で探る・探す必要がある。で、先週迄の粗立ち稽古
でかなり見えてきたものがあった。
<劇言語〜現代口語を突き抜けた世界へ>
五組の若い団地の主婦たちの口ずさむ言葉(現代口語の世界、あるいは「世間」)に入れない同じ団地の主婦
「沼」。主婦たちに対立する存在として登場する「強姦された娘」の「水」。彼女らは岸田理生の一方ともう一方と
いう構造を有している。主婦たちの日常に同化出来なかった「沼」は自死するしかなく「水」は精神病院に隔離さ
れる運命にある。
「沼」の持つ言語(吃語的発話)は<沈黙の原語>に通じるもので主婦たちの依拠する「表層の言語」(情報とし
ての言語・記号〜コミュニケーションのツール)とは相容れない。テラ版では「沼」の持つ<沈黙の原語>と共振
する存在として「洲崎にかつて生き何も言葉を残さず苦海に身を沈めていったであろう女性」を象徴的に、ある
いは記憶の幻影として登場させる予定である(舞踏の相良の登場、「沼」の死を受けた場面)
言語は世界を作っている。私たちはこの言語が形成する世界に閉じ込められている。そこから抜け出すために
は新たな言語の獲得が必要であり、岸田理生はそれをやろうとし、また「沈黙の原語」も同様の意味を有する。
おそらくそれは現代口語を突き抜けたところにあり、<沈黙の原語>と親和する場所にあることば(劇言語)、な
のではないか。
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小屋対応の演技空間の構成、何とか見えてきたところ。今回のもっとも大きな壁、困難な部分だった。大道具を
持ち込むなら(もっともテーブル程度だが)、それを用意したり作らなければならないので真っ先に判断する必要
がある。比較的、大きな舞台を想定して作られた台本。それを小さなスペースに持ってくる難しさをここまで随所
に散りばめた台本もそれほどないかもしれない。そこはすごく複雑に出来ている。
さて、今回の「恋 其之参」だ。
私の知っている岸田理生はまるで母親のように劇団員を考え、彼/彼女らの成長に合わせて言葉を紡ぎ出し作
品を提示する作家だった(前中期〜劇団活動時)。その意味で究極の役者思い、優しさは類をみない人だった。
今回の台本はその劇団の最盛期、演劇界でも注目の渦中での作品。劇団は昇り坂、しかし理生さんは逆に危
機感を持っていた。「理生節」にすっかり慣れ、心地よさを感じ、安定に入った役者に、そこで止まってはダメだ、
そういう喝を入れるつもりで書いた作品なのだ。足元を一気にすくい、安心をぶち壊し、そして更なる高みに向か
って欲しい、そういう自劇団員の成長過程と合わせた作品。当時(80年代)もっとも充実した集団性を保持した劇
団。その盤石の体制の中で座付作家があえてその言葉に身も心も染まり切った役者に一度それを捨てよと書
いた台本。(上演当時の舞台の)出来の良しあしはわからない。しかし、ここに彼女の役者への愛情の深さが確
かにあることは、わかる。
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6日目の稽古おわり。先週は7場のうち、4場まで大雑把に流れを決め、今日は幾つか多人数での動きを要する
場面を少し細かく決める。団地の夫婦5組10人が小さな舞台に同時に別々の家庭内にいる最初のシーン2場の
描写というか空間構築、ミザンセーヌに、ない知恵絞って考えに考えたが何とか立体化、同一多空間の作り、不
自然だけど不自然に感じさせない工夫、今日も続けた。その中で団地への侵入者を発見して大騒動シーン。た
った25秒の場面、しかし13人が小さな空間を同時に動き回りカラダを使う。何度もやり直しで全体が固まるまで
には役者陣も汗だく。お疲れ様でした!別の移動場面も軌道を作り役者同士がぶつからないよう見た目に美し
くなるよう動線の整理。まるでパズルをしている感じ。
「岸田理生が決して使わなかった現代口語(それも乱れた日本語)による喜劇」という異色作。コメディ芝居を地
にシュールな場面が加わり、動的展開。旧赤線地帯の記憶が召還される場面は異人の到来で。私が劇作して
いた時期(1980年代)の作風とぴったり重なる世界観と作風。というか、そっちに持ってきてしまった?
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「恋 其之参」稽古四日目終了。
芝居の始まりである1場女性シーン、一日一日と面白味を増す。1場から3場までの40分は粗造りの段階だが充
分観客を惹き付けられる手ごたえ得る。あとは後半をどう立ち上げていくか。舞台は役者が作るもの、演出はそ
のための土俵やルールを提示する、そして一緒に舞台創造するというテラ式集団創作の方法が戯曲上演にも
生きてきた感じ。役者たちもすごく生き生きとしている。今回は出演者16名の多くが初めてテラの舞台を一緒す
るが、早くも同じ土俵で一緒に舞台作りをする良き同志になりつつある。
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<「弱者」が許容される世界>
DCS(ドワンゴ・クリエイティブ・スクール)の授業、終わってそのまま羽田空港へ直行。今日の授業は即興・エチ
ュード。大いに笑う内容、生徒も生き生きしていた。
芸術家は特別な存在である。もし、ゴッホと当時の資産家や町の有力者が人質交換となった時、当時の人々に
とって何の益もないゴッホが見捨てられるだろう。しかし、今の我々には当時のお偉方は何の意味もないがゴッ
ホは重要なのである。人の命は同じ価値、とは近代ヒューマニズムの建前であり、それはそれで大事なことだ
が、一方で人の価値はその人の生き方や能力と切り離すことは出来ないことも確かだ。社会は現在だけで存在
するものではなく、未来に対しての責任もある。そのために芸術家はとても貴重な存在なのだ。
全日空夜便で福岡へ。19時の便、ビジネスマンが多い。一様に同じ顔つきをしている男だらけ、ビジネスマンだ
らけ。2割程度、女性。春休み帰省の学生風。TTCで名古屋に通った時の平日の新幹線の車内を思い出す。ビ
ジネスマンの護送列車状態だった。
非正規雇用が減ったとは言っても、かつてブルーカラーで正規だった者が今は製造業がグローバル化の波で衰
退し非正規へ、しかし「ホワイトカラー」は変わらず一定の層がいる、ということか。非正規が増えたというのは農
業従事者の減少、製造業従事者の減少とサービス産業の増加と不離の関係だろう。
飛行機の中で岸田理生の『恋〜其の参〜』読む。団地の主婦と中流サラリーマン世界が描かれている。その皮
相な世界を滑稽に、同時にその皮を一枚めくると隠蔽された闇が露出する。皮相な世界、世間に理生は入りた
くない、私も入りたくない。だから、演劇の道を選んだ。サラリーマン(会社優先=経済優先価値観の世界)から
自発的自主的に外れた。そういう生き方と別の道を選んだ。そしてビジネスとしての演劇ではなく、「芸術活動と
しての演劇」(儲からないけどやる必要がある演劇)に参加したのだ。
多数派の良識、偽善的な「ヒューマニズム」からの逃亡〜それが『恋』の世界観を形成している。余計者、厄介も
の(弱者)がいてもいい世界、弱者が許される世界。誰でもが弱者になる得る現在からこの作品を見ると極めて
今日的(ポスト震災社会)な主題を持っている。異質な存在を排除する同質性を強制する社会への告発、と同時
にある種の「落ち毀れる者」への優しさに裏打ちされた世界。
まずは出演者を見つける、が3月のテーマか。この世界観を共有できる者たちを見つけるのが課題。
欧米社会では社会に居場所のない若者が過激化、イスラム国に参加すると言われる。こうした現象の根底にあ
る問題とこの作品は深く関連している、と思った。日本もずいぶん、生きずらくなってきた。
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異なるものとの交流は視界を拓く
〜演劇の不可能性との対峙、沈黙を超えるために〜
昨年12月のITI(国際演劇協会)日本センター企画制作「紛争地域から生まれた演劇6」に関して少し考えたこと
を忘れぬうちメモ(ノート)しておく。
『燃えるスタアのバラッド』(ニル・パルディ作、UK/イスラエル)は集団創作でつくられ、作った人間が演じ表現す
る、作品を生きることを前提としたフィジカルな舞台である。その言葉(テクスト)だけを使い、日本語で日本人演
出家が日本人俳優によってリーディングするということはテクストの意味成立に不可欠なコンテクスト(文脈)の
相違だけでなく、その表現方法に於いても大きな乖離が生じる。それを前提にしまた念頭に置いて演出を考える
必要がある、ということを私たち日本人に要求する。更に「リーディング」という表現方法の不可能性や限界性も
顕在化する。これらの「壁」を予め知った上でそれでもやるかやらないかの判断は、今回の「紛争演劇」の作品
選択やシンポジウムも含めたテーマの原案、グラウンドデザインをする側にかなりの熟考の時間と思考作業を
求めることになった。実際にテクスト(英文台本)を入手してからこれを「紛争地域から生まれた演劇6」でやろう
と決定するまでには原語での読み込みにかなりの時間を要することになった。複雑な構造を持った作品であると
同時に複雑な問題、つまり加害者と被害者のねじれの構造を持ったものだからであり、それが成立するには発
語だけでなく沈黙との対峙を発語者に要求するからである。だから言葉だけでの読み込みに留まらず言葉に浮
き上がっていない部分に想像を掘り下げての作業が必要となったのである。
ドラッグクイーンという差別される側の立場の設定が語り手に要求され、それは単に「役」という位置づけに限定
されず、誰が話者になるかという問題と深く関わる。わかりずらければ戦争に関する日本人の立場に置きかえ
ればよい。戦争の加害者としてそこに立ち、そこには被害者の家族、たとえば中国やフィリピンで日本軍の残虐
行為を家族受けた人々がいたとしたらどうであろう。被害者の立場で発語する場合とは様相を異にする。より複
雑な構造、それは発語者のアイデンティティ自体を深く理解することを要し、その背景の理解も要求されてくるも
のである。
一方で「これは極めてパーソナルな作品」と繰り返し強調していた作者のニル・パルディ氏自身も日本人演出家
による日本語での上演に当初から違和感を抱いたようで、稽古過程に立ち会うことを強く希望していた。日本人
がどこまで彼の「パーソナル」な部分を理解できるのか?当初は懐疑的であったと思われる。その懐疑を乗り越
えるのに結局、来て観てもらって自分たちとは全く違うものと首をかしげ、しかし徐々に違いの上にもこれはこれ
で意義があると納得するまで春から接触が始まり12月まで掛かったと言える。単一民族という思い込みが支配
的な日本人によって上演されることはもともと多国籍メンバーによって作られたものとはアプローチが自ずと異
なるであろう。
パレスチナ占領の当事者性が強く関与している作品、それを「他人事」でしかない日本人がやることにより、演
劇(役に感情移入し、同化さえすれば何の役でもやれる、芝居が成立するという幻想)の不可能性を突きつけた
ものとして意味がある。もちろん、不可能だからやれないのではなく、不可能性を前提にしてのアプローチがあ
るはず。そこを日本人に突きつけた作品だったと思う。
加害者の側に立つ自分、物語の中でアラブの少年を誤射した自分に「気にするな、ただの少年だ」と同僚役か
ら声を掛けられた瞬間、彼は演技を停止し、かつらを取って演技以前の自分に戻り物語=虚構としての演劇の
中から出て劇の中断を告げる。決して「宙吊り」ではない。 語ることの不可能性、演劇=フィクションという表現
形式の不可能性に突き当たる。いや、彼らの演劇が言語によって作られ物語られる演劇の虚構性という枠組と
は別の場所に立つことを告げ、自らの加害性=恥部を曝し、観客の判断や思考を促すのである。つまり劇中で
完結しない演劇、なのだ。
「異文化交流」は容易ではない。日本舞踊の理解は日本人でも容易ではない。しかし、容易ではないから始める
のだ。まずは接触から、たとえ表面からでも。その意味で言葉から入るのは表面から入る入り方ともいえる。言
葉の奥には言葉には出来ない沈黙があり、その沈黙は差別を受ける側、弱い立場にある者には常に強いられ
る沈黙の重さを持つ。その沈黙まで深めての共有の意志と姿勢の中で初めて溝は浅くなり、乖離の幅は縮まっ
てくる。創造主体の当事者性に寄り添う態度を持つことで「交流」の、あるいは共感、呼応関係の扉は開かれて
くると言える。演劇における交流とはこうしたプロセスを踏まえる中で容易ではないが無理ではない、ということ
から一歩を踏み出すべきである。
紛争地域から生まれた演劇 シリーズ6
●期間 2014年12月19日(金)〜23日(火・祝)
●会場 東京芸術劇場アトリエウエスト
【作品解説】
『燃えるスタアのバラッド(Ballad of the Burning Star)』(UK/イスラエル)
ロンドンを拠点とする多国籍劇団 Theatre Ad Infinitum によって製作され、昨年のエディンバラ・フリンジフェス
ティバルで大賞受賞、現在、英国ツアー中の作品。劇団はパリのジャック・ルコック国際演劇学校の卒業生たち
によって結成されたフィジカルシアターを基本とする団体である。この作品の作・演出・主演のNir Paldiはイスラ
エル出身、パレスチナ問題を同時に「イスラエル問題」としてとらえ、紛争と占領がイスラエル人の心理にどのよ
うな影響と分裂を引き起こしているかを「キャバレースタイル」を使って描き出している。
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