演劇企画団体 テラ・アーツ・ファクトリー


演劇で伝えるフクシマ

演劇で伝えるフクシマ
ーあなたはどう考える?〜

(演劇大学 in こおりやま 3日目)
郡山市民文化センター展示室 
13:30〜17:30

『奥羽行進曲』
劇団ユニット・ラビッツ、作・演出:佐藤茂紀
熱い芝居、つかさんの『蒲田行進曲』の世界を借り、人のいなくなった警戒区域、ゲート内に残された犬たちの世界を通じて、やり切れない思いを表現。なかなかいいアイデア、そしてラストは予想外。とても良い設定、構成だったと思う。


『愛しき福島へー原発から50キロのまち』
郡山演劇研究会「ほのお」、作・演出:町聡子、
「ほのお」は結成して52年。郡山は、避難者が来る町。リポートを交えて、町さんが台本を書いた。東京、笹塚ファクトリーで開催された「フェニックスP」で声をかけられたのがこの劇創作の発端という。震災後、気がすっかり萎えていた。それまでは名作を朗読し楽しむ集まりだった研究会。しかし、震災を機に、震災後の自分たちを反映させる作品を作ろう、そういう意志で立ちあげられたものである。自分の苦しい体験を作品として表象するのは簡単ではない。痛みや複雑な葛藤が介在する。すごくいいチャレンジだと思った。震災、原発事故で激しく揺れ続ける心を反映し、まずは「被災地」に生きる人間の現状を知ってもらうために、作った。これは自分自身の心の記述と整理のためにもなる。「ツール」としての演劇、と言えよう。「ツールとしての演劇」は、芸術レベル価値基準とする「芸術市場」では無視されたり、低評価をされたりする。しかし、だからといって、それが無意味とは言えない。「劇場の演劇」とは別の価値と可能性がある、そう小生は考える。


『回りながら登れ』
満塁鳥王一座、作・演出:大信ペリカン
象徴的な表現による舞台。演劇作りに慣れている人たちの作品である。町の見回り隊、クロネコヤマト(黒い衣装の女性)と町を見物に海から来た女。三島由紀夫の(卒塔婆小町』がモチーフとなっている。身体性を軸にした作品で、二人のディスコミュニケーションを扱っている。スローな発話、非日常的な世界(誰もいない町)、非日常的な演技(発話に特に表出)。セリフも聴きやすく、からだにすとんと入ってくる感じで、私は結構、こういう抽象的な舞台は好きだ。第一義的には、この劇が扱う「津波」はストレートに表現されないが、その奥の深いところに第二義的に「津波」体験に根差した物語がある、という感じ。

『富岡の空へ』
『富岡の空へ』上演実行委員会、原作:佐藤紫華子(『原発難民の詩』)、脚本・演出:青木淑子
震災から三年目、風化、避難所暮らしの閉塞感。90歳の女性の「心の叫び」が詩集として世に出た。それを題材にした朗読劇。富岡町の避難所、90歳の佐藤さんの詩から、構成朗読劇。



「ディスカッション」  
冒頭で、演劇評論家の村井健さんが「ダメだし」をする。関係が生きていない。体験、からその深みと奥行き、に至るには熟成が必要。「悲惨さ」を出すだけではダメだ。当事者という条件だけで特別席にに座れるわけではない。むしろ、感情や思いの自制とコントロールが必要だ。「感情によりかかってはダメ。共有、共感するには、その技法の開拓が必要だ。

藤田傳氏 舞台の役者が見えなかった。舞台を真ん中にするべきだった。自分の感情を訴えるのではなく。悲しみ、絆と言えば皆が納得・・・ではなく、現実の人間はもっと残酷なもの。そういう残酷さを隠した「納得」に対して異議を突きつけて行くべき。

流山児祥氏 他人のものを自分のものにするのが役者。役者、面白いことをする。金にならない、人のためにならない。だけど、面白い。僕は「燃料棒」(『先月、東京で上演した『アトミック・ストーム』での氏の役)、危険だけど、ちゃんと見えるようにする。

広田淳一氏 東京で「ほのお」を見たとき、すごいと思った。今回は、うまくなっている。でも、それはいいことなのか?「当事者」性を抜きにしたところでどこまでやれるか?

佐藤茂紀氏 震災後、しばらくしてばらばらになっていた劇団員が集まってきた。みな、口に出来ないことがたくさんあった。演劇はツールだと思った。口に出来ないこと、うまく言えないことがあるから演劇というツールを使う。震災後、一時的に助け合いはあったが、その後、どうなったか?思いやり、は本当にあるのだろうか?人間の酷薄さ、もろもろを実感した日々、がこの作品に。

村井健氏 「かたち」(演劇という)をやっているが、関係性が成り立っていない。言葉が通い合っていない。魂が通っていない。ストーリーがあれば演劇は成り立っていると多くの演劇は錯覚(一般論、日本の演劇の現状のことを言っている)。「原発」テーマの劇、作り急いではいけない。原発事故は日本の問題、世界の問題。日本の近代・現代の精神性が問われている。焦る必要はない。熟成させればよい、作るのは九州の人でも誰でもいい。現在の「ヒロシマは日本にあらず」、「フクシマは日本にあらず」という風潮(被曝の歴史・体験・事実の封殺傾向)に対して、福島の人が声高に言ってるだけではダメだ。日本人がそのことを共有していかなくちゃ。

流山児祥氏 二人の関係、そこに一人の他者が入ってくる。三人によって演劇は成り立つ。三人から演劇は始まる。「鳥王」は二人芝居だが、ひとり芝居の延長。自分が壊れることを恐れている。みんな、ぶざまでどうしようもない。シンプルなことを忘れている。沖縄のこと、原発のこと。金のことしか言わない総理。「芸術」はやばい、芸術は金とつながる、経済のことしかない。だから僕は「芸能」と言う。生ものでないものが幅を効かせている。「お前は何者だ?」、何者だ、を探して必死になるのが芝居。見世物としての芝居のプライドを持つべきだと思う。「思い込み」しかない。「思ってるかどうか」しかない。「思い」を見せて欲しい。思い込んだら命がけ、だ。「ユニッツ・ラビット」は三人だけど、三人の芝居になってない。朗読劇は一人芝居。演劇は「官能の解放区」、劇の中では何をやってもいい。劇は役者のもの、役者は考えるしかない。その人間が生きる。その人の「リアル」しかない。

藤田傳氏 最高の発散は人を巻き込むこと。本当のことではない、ウソで巻き込むのが最高の発散。ばれないウソをつくのが「リアル」。真実はそれを見た人の網膜の中にしかない。つまり「リアル」とは妄想。妄想を抱かせるにはそういう仕掛けが必要。映画と演劇の双方をやったベルイマンが言う。映画には実際の田んぼが必要だ。演劇には田んぼがそこになくてもウソがつける、と。「非凡」、裸になった時、初めて非凡。これが「リアル」。人間の因果、人間は老いる、死ぬ。腐って初めて(裸になれる?)。腐る芝居が見たい。しかし、腐らない芝居ばかり(これも一般論として、の意味で)。

広田淳一氏 流山児さんとペリカンでは、文脈が違いすぎる。演劇は多様化している。

公家義徳氏 重病になった時、はじめは周りの人も心配する。共有できる。しかし、それが続くと、難しい。そうでなくなった時に、どうやってお互いのこととして共有していけるけ、を探さなければならない。沖縄、水俣・・・地域問題でしかない。そこで苦しんでいる人が発信するだけでは、そこの問題でしかない。みんなの問題にならない。みんなの問題にする、べき。

青木淑子氏 演劇論になったけど、あなたは福島をどう考えるか、を問題にして欲しい。メッセージをどう考えるか。

観客(おそらく『富岡の空へ』出演の方) 事実をメッセージとして伝えた。演劇的「熟成」を待ってられない。私たち避難民の共通の思いだ。



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